探偵今昔物語 エリーゼのために

探偵を二十年近くやっていると、それなりに面白い話も貯まります。今回は、そんな昔話のひとつをお話しします。

 

若手調査員の失敗

少し前の話です。古い知人の探偵に頼まれ、そこの調査の助っ人をすることになりました。
私と同期の探偵ですが、その本人は現場を退き、今は経営に専念しています。当時から調査より営業が得意なタイプだったので、正解だと内心では思っていました。
代わりに現場に出ているのが、まだ新人と言ってもいい若手調査員でした。

二台の対象車両を、私とその若手がそれぞれ追跡するという内容でしたが、開始後、その若手から「見失いましたァァァ」という最悪の連絡がきました。

「車を乗り換えられました!」と。「GPSの追跡装置の付いていない車両だったから追えなかった」と。それが理由だそうです。

「それを追うのがプロだろうがアホか」

ノドまで出かかりましたが、よその調査員だけに我慢しました。そして、昔、その同期の探偵と組んで現場に出ていたときも、「すいません! まかれました」と謎の言い訳をされたな、と懐かしく思い出しました。

「『まかれた』じゃなくて『見失った』だろうがアホか」と当時もノドまで出かかったものです。

 

GPSのなかった時代

よくヘマをしていた己の調査員時代を棚に上げ、その同期の探偵は、失敗した部下の若手にカミナリを落としました。

「車乗り換えられたから追えないとか、おまえそれでもプロかっ」

エラそうに言う同期の探偵を、私は微妙な半笑いで見ていました。しかしその若手も、さすがは最近の若者らしく、叱られっぱなしではありません。

「そうは言っても、GPSなしで尾行なんて無理っスよ」とふてくされた顔でボヤきました。

時代は変わったなーと思いました。GPSがない時代でも、もちろん探偵は尾行をしていたからです。

 

技術を持たない探偵

夢の追跡装置であるGPSの登場で、尾行は劇的に変化しました。しかし、そんなものがなかった時代、探偵はどうやって調査をしていたのか。

ひとつめは、技術を用いた尾行。正攻法です。

その若手は「車両尾行なんて、間に車一台入られたら終わりやないスか」と言っていましたが、それも一理あります。

狭い日本の道路、対象車と調査車両の間に強引に割り込んできた一台が、黄色信号で停まったり、右左折でモタモタしただけで、もう追跡に破綻が生じます。

強引に追い越そうものなら、目立ってしまって不審がられますし、それどころか、道交法違反で警察に捕まったり、事故を起こしたりの危険性もあるでしょう。

だからこそ、尾行にはセンスと経験が出るのです。尾行のコツとテクニック。商売上の秘密なのでもちろんここでは詳しく記しません。

では、そのセンスや経験のない、尾行の下手な探偵はどうするか。

「尾行が下手? そんな探偵居るの?」……そう思われそうですが、居ます。

その同期のように、調査はイマイチだけど、経営や営業が得意というタイプです。

そんなタイプはGPSが普及して涙を流さんばかりに喜んだことでしょうが、それ以前にも、『追跡装置』を用いることで尾行に順応していました。

GPSが導入される前のハイテク。それが『車両追跡装置』です。

 

浮気調査の切り札。車両追跡装置

私が探偵になった頃は、ちょうどGPSが探偵業界に普及し始めた頃でした。
しかも私はどちらかと言えば尾行が得意で、機械に頼らなかったので、その旧世代のハイテクノロジー『車両追跡装置』を見たのはたったの一度だけです。

その装置は、弁当箱くらいの大きさで、その形状から「ベントー」とか、車の底に磁石で付けることから「ペッタン」などと俗称がありました。構造としては単純で、いわゆる『発信機』です。

指向性のある電波を常時発しており、受信機でその電波をキャッチすることで、対象車両がどの方向の、どのくらい離れた場所に居るかを測定するというシステムです。

電波というのは距離によって強さが変わりますから、その装置が近づくほど受信する電波の強さが大きくなるわけです。

 

エリーゼのために。

感覚的には歌を歌いながら歩いているひとを遠くから探すようなものでしょうか。その歌声を聞いて、どっちの方角かを知り、その音量で相手との距離を測るわけです。

装置の開発者がそのイメージを本当に応用したのか知りませんが、このペッタン、音を発信する仕組みになっていました。音というか、音楽です。

それが、なぜか、『エリーゼのために』でした。

そのときもまた、調査の助っ人として呼ばれた私は、尾行の下手な同期の探偵と現場で合流し、相手の車に乗り込みました。

古い時代なので、車種はフルスモークの陰気なホワイトのカローラでした。

助手席に乗るなり、電話の保留音そっくりの電子音に気づきました。

タバコと汗と男くさい車内に、はかなげで、繊細な、『エリーゼのために』のメロディーが、健気に、もの悲しく、訴えかけるようにリピートしているわけです。

その不気味さは、シュールを通り越して、もはやホラーでした。

 

狂気の時間

詳しい仕組みは私も知りませんが、その『エリーゼのために』の強弱や響き方によって、追跡している車の動きが把握できるシステムらしいです。

きっと装置の開発者も、無機質な電子音が鳴るよりは、偉大な楽聖の素朴なアルペジオのほうが耳に優しい、と考えたのかもしれません。

しかし、柔らかな悲しみに満ちたイ短調の電子音は、長時間男二人で待機する車内には、絶望的にマッチしません。

しかもその日の現場は、山と田んぼに囲まれた、だだっ広いくせに妙に息苦しい地方の集落。おまけに相手が全然動かず、そんな場所に長時間居なくてはなりませんでした。

どこに車を止めても目立ち、住人の方々からワラワラと囲まれそうな雰囲気だったので、私たちは調査車両を、うっそうとした林に囲まれた沼のような貯水池のほとりの、巨大な木の陰に止めていました。

日は段々と沈み、まわりではカラスがぎゃあぎゃあ鳴き、木々は静かに揺れる中、私たちは次第に口数も減り、ただ黙って、無限に繰り返される哀愁のメロディーに浸り続けたのでした。

男二人が黙って座る暗い車内。淡々と何百回も繰り返される電子音。エリーゼのために。

控えめに言って、悪夢の中に居るようでした。

 

装置のその後

開業当初から、もり探偵事務所は独立独歩でやっていることもあって、かつて主流だったこの『車両追跡装置』についての詳しい知識はありません。

使っていた同業者も、その同期の知人しか知りませんし、GPSが普及され始めると、その尾行がイマイチな探偵は即座に飛びつきました。
(この『新・GPSシステム』もネタの宝庫なのですが、それはまた別の機会に語ります)

話によると、私より前の世代の探偵にはかなり愛用者が居たらしく、業界が新GPSシステムに移行する中、この古い『車両追跡装置』を愛用し続けたベテラン探偵も意外に多かったと聞いています。

そんな彼らは、年齢的にももう調査の一線は退き、とっくに引退していることでしょうが、『エリーゼのために』は、現場で奮戦し続けた若き日の思い出のメロディとして、歴戦の調査員たちの心に深く根差しているのではないでしょうか。

私にとっては呪いのメロディですが。

 

 

もり探偵事務所は、機械に頼らず尾行ができる福岡県の私立探偵です。