探偵になった依頼人

今日までに何百人もの人を調べました。そして、その数の分だけ依頼人と出会ってきました。

その中でも、特に忘れられない依頼人が居ます。

「探偵になってしまった」依頼人です。

 

結婚詐欺にあった依頼人

結婚詐欺に遭い、必死で貯めた数百万円を持ち逃げされてしまったという男性でした。

残ったなけなしのお金で探偵に依頼しようと、福岡中の調査事務所・興信所に電話をかけたそうです。

どこも予算オーバーでとても頼めなかったとき、たまたま私の事務所を見つけ、相談してきたのです。

私は、とある大手事務所の半分の依頼料で、その依頼を引き受けました。

その金額にしても、私にとっては十分な額に感じたものですが、昔は「行方探し」という調査で、高額な依頼料を取る調査会社が多かったのです。

 

調査に着手。関西へ

さて、調査に着手してすぐに、相手が関西に行った事は掴めました。

私は大阪に飛びました。

聞き込みをし、次に神戸に行き、聞き込みをし、今度は滋賀へ。

さらに聞き込みをして、いつ途切れてもおかしくない細い糸を懸命にたぐり、その女性を探し続けました。

そして契約満了の1日前。ついに、大阪のとある繁華街のアパートにその女性が居るという事をつきとめました。

 

ついに発見。だが……

ビルとビルとに囲まれた古いアパートをまる2日間張込みました。

真夏の、連日の張り込み。私の長い探偵歴でも、このときほど苦しかった張り込みはそうそうありません。

そして、ようやく、ようやく対象者らしき女性が現れました。

近くの雑居ビルの屋上から望遠カメラでそれを撮影した私は、すぐに写真をメールに添付し、依頼人に確認を頼みました。

依頼人は、興奮しきった声で「これです! 本人です!」と告げてきました。

ところが依頼人は、「最後の1日ぶんの調査をキャンセルして欲しい」と希望してきました。

契約上は、そこでキャンセルしても返金は出来ないのですが、少なくとも1日分の滞在経費を節約することが出来ます。

「そこから先は、自分が動く」

依頼人はそう決めたようでした。

 

依頼の終了

私の率直な意見は、張り込みを続行し、監視を止めないことでした。

本人は発見出来たものの、まだ情報が少ないし、気づかれる前に、出来る限り情報を集めて外堀を埋めておくべきだと思ったからです。

しかし、「最後の1日をキャンセルし、その浮いた分のお金を交通費にあてる」と言われたら、こちらも強くは言えません。

最後の1日分の調査料金も返金してあげる事にしました。

依頼人の資金の足しになれば、と考えたからです。

私はその日のうちに福岡へ帰ることになり、入れ替わりで依頼人が大阪へ来る事になりました。

こうして私の仕事は終わったのです。

 

その結末

数日後、すっかり意気消沈した声で、依頼人から連絡が来ました。

「探偵さんにお話があります……」

会って話を聞いてみると、依頼人が現地に着く前に、その女性はすでに消えていたとの事でした。

その女性を見つけたことを、思わず周囲に話してしまい、それを聞いた誰かが、女性に密告したのが原因……と依頼人は言いました。

真相は分かりません。

でもこれだけは言えます。やはり私は現地に残り、監視を続行すべきだったのです。

少なくとも、その依頼人が到着する時までは。

すっかり憔悴しきった依頼人は、「もうお金も無くなってしまい、これ以上探偵さんに依頼する事も出来ません…」

と、うなだれたまま帰って行きました。

 

驚きの展開。探偵になった依頼人

しかし、1ヶ月ほどして、突然その依頼人から電話が来ました。

「依頼するお金が無いから、自分で探そうと探偵になっちゃいました」と。

彼は、少し照れたように言いました。

元依頼人が就職した調査会社は、電話帳に名前が載っている事以外は、私のまったく知らない興信所でした。

「森さんにあやかって、調査用の偽名を作りました」

そう言って見せてもらった名刺には、確かに私になんとなく似た感じの名前が印刷されていました。

「せっかく同業者になったわけだし、飲みにいきませんか」

と誘われましたが、「依頼人」との個人的な関わりを好まない私は、丁重に断りました。

その代わりに、

「もし、その逃げた女性を見つけ出して、うまくお金を取り戻したら……その時はそのお金で一杯おごってください」と告げました。

 

悲しみのてん末

この依頼人からはその後、半年後と一年後とに、二回だけ連絡が来ました。

最初の電話で、彼はひどく辛そうに、「探偵の仕事って厳しいですね」と言いました。

次の電話では、彼はとても悲しそうに、「探偵さんが、あの時どれだけ良心的だったかを思い知りました」と言って、電話を切りました。

それからずいぶん時間が経ち、たまたま話をした大手事務所のベテラン探偵から、唐突に、

「○○って知っとるやろ。お前が面倒見たやつ」と切りだされました。

思いがけない相手から出た、思いがけない名前。

そのベテランの事務所と、依頼人が就職した興信所とは私の中では全然つながっていませんでした。狭い業界だと驚くと同時に感心しました。

「探偵になったと聞きましたが、元気にしてますか?」

「逃げたぞ」

返事はそれだけでした。

その依頼人が就職した興信所は、調査業というより、債権回収を主な業務にしている「事件屋」だったと、その時初めて知りました。

 

探偵仲間として

そこで依頼人の身に、何が起きて、どうなったのかは分かりません。

彼の消息はこれっきりです。

出来ることならば、この探偵になった依頼人が、その後経験を積み、調査技術を身につけ、そして見事に結婚詐欺の女性を見つけ出し、取り戻したお金で一緒に飲みに行った……

と結べれば良いエピソードだったのでしょう。

でも、現実というのは、どうしようもなく厳しく、物語のように都合良くはいかないようです。

今、振り返ってみると、彼が二回電話をかけてきたどちらかででも、飲みに誘い、話を聞いてあげていれば、もう少し違う結末だったのかな、と思います。

そう。「探偵仲間」として。