これは、私がまだ駆け出しのころ。

いわゆるガラケーに、伸縮するアンテナが付いていた時代だ。これはそんな時代の話である。

ある平日の午前中、相談の電話がかかってきた。

おそろしく焦った女性の声で、「ケータイ電話の暗証番号を解除出来ますか!?」と尋ねられた。

聞くと、いつも不自然にケータイにロックをかけ、非常に怪しい旦那さんが、たまたまその日は、ケータイを忘れて出たという。

すぐに会社から電話がきて、「昼休みに取りに戻る。ぜったいにさわるな!」と言われたらしい。

それまでに、ロックを解除したいという緊急要請だ。

すでに11時近く、猶予はそれほどない。

 

私は、「5分だけ時間をください」と、いったん電話を切った。

すぐに、同業者仲間に電話をかける。

大手調査事務所を経営するベテラン探偵で、豊富な資金力を活かし、得体のしれない調査機器をたくさんそろえていた。

以前、「パスコード・アンロッカー」とかいう怪しい機材を自慢されたことを覚えていたのだ。

その名のとおり、携帯電話の暗証番号を解除してしまう装置である。当時は、パソコンの解読ソフトが世に出回る前だったのだ。

ティッシュの箱より二回りほど小さな黒いボディの下部から、携帯の端子に繋ぐための何本ものコードが、タコの足のように伸びているという、モノモノしい代物だ。

ベテラン探偵に、「早急に必要になったので、貸して欲しい」と頼んだ。

足元を見られぬよう、なるべく焦りを出さないようにしたのに、そこはさすが海千山千のベテラン。

返ってきたのは、「貸すのはダメ。買取ならいいよー」という、血も涙もない返事だった。

そのお値段は、奇しくもクライアントの提示してきた予算とほぼ同じ。

定価で買うよりは安いが、それでも高額だ。

さすがに一瞬ためらった。このベテラン探偵のところに依頼を流そうとも思った。

だが、おそらく私が受ける2倍以上の金額をふっかけることだろう。

時間的にも、この件で動ける探偵は私だけだ。

迷ってる暇はなかった。「……わかりました。買います!」と即決した。

すぐに依頼人に電話を折り返し、事務所を飛び出した。

まずはベテラン探偵の事務所に走り、機材を受け取って金を渡す。

機材を引ったくり、依頼人の自宅へ。

私としては、ケータイを預かり、比較的安全な場所でロックを解除したかった。

が、依頼人は自分も立ち会いたいと突っ張った。いくら探偵とはいえ、会ったばかりの人間に夫のケータイを渡すのは、不安らしい。

結局、依頼人の自宅で作業をする事になった。

一戸建てだったので、解読が間に合わず旦那さんが帰宅したときは、私は窓から出て庭から逃げるという計画で、靴を持ったまま家に入った。探偵の私がこれじゃ間男である。

この時点で、すでに12時すぎ。

旦那さんの会社から自宅まで、それなりに距離はあったが、わざわざロックをかけているような相手だ。ケータイが手元にないことに、気が気じゃないだろう。あわてて取りに戻ってくるに違いない。

すぐにケータイを受け取り、コードに繋ぐ。

おもむろにボタンを押し、解読を開始した。

「大丈夫でしょうか……?」

クライアントが不安そうな顔をする。

「大丈夫ですよ」

無理に笑みを浮かべたが、内心では、鍵を開ける音がしたら機材を持って窓へダッシュしようと、シミュレーションしていた。

静まり返ったリビングに時計のカチカチ音が響く。

私は目の前の黒い機械を睨みながら、全身の神経を集中させ、玄関の物音に耳を澄ませた。

帰ってくるな。まだ帰ってくるな。

口の中がカラカラになるような長い一瞬が過ぎ……

パスコード・アンロッカーが、「ドヤッ」と四つの数字を表示させた。

「出た、出ました!」

私は小声で叫び、数字を見た。奥さんは私からケータイをひったくると、「何番!?」と叫ぶ。

私は圧倒されつつ、数字を伝えた。数字を入力した奥さんの顔がどんどん険しくなり、全身から怒りのオーラが噴出した。

「どう……です?」

おそるおそる聞く。が黙殺された。ロックが解除されたケータイを操作しながら、奥さんは静かに「あのやろう」とつぶやいた。

私はそそくさと機材をカバンに入れると、テーブルの上に置かれた報酬を懐にしまい、一礼してその場を辞した。

そっと玄関を開いて外をうかがい、事務所へ逃げ帰った。

 

その後、そのクライアント及び旦那さんがどうなったかは分からない。

大活躍?した「パスコード・アンロッカー」は私のものになったが、けっきょく使ったのはこの一回だけ。

その後、すぐにノーパソで解除できる解読ソフトが出回ったからである。

ベテラン探偵が、良い機会だと私に売りつけたのも納得だ。

高額で買わされ、たった一回だけ活躍した「パスコード・アンロッカー」

もう使わないのは分かりきっているというのに、私はこの機材を未だに捨てられずにいる。

 

探偵を開業した2000年代初頭。

2023年の今では信じられない、こういう案件がたくさんあった。

スマホ、AI、ビッグデータ……

探偵業界もすっかり様変わりしてしまったが、ときどき私は、今とは違った楽しさがあったこの時代を思い出す。