とある長い昔話
夏なので今回は少し変わった昔話を。
今からもうずっと前の、とある夏。
降り続いた雨のせいで妙に肌寒い日の夕方、こんな相談電話がかかってきました。
「夜中に家に来る誰かを捕まえて欲しい」
暗い声の、年齢が分かりにくい女性でした。
すぐ自宅に来て欲しいと言われて向かった先は、どこにでもあるような単身者向けマンション。
遠くから見ると瀟洒な作りでしたが、近づいてみるとあちこちがひび割れ、思ったよりもずっと古い建物だと分かりました。
妙に重いガラス戸を体重をかけて押し開けると、古いじゅうたんのような匂いが鼻につきました。たくさん並んだポストは、チラシがあふれていたり、ガムテープでふさいであったりと空室が目につきました。
管理人室には色あせたカーテンが閉ざされ、もう何年もガラス窓は開いていないという雰囲気です。
建物同様古くてやけに遅いエレベーターで、4階にある依頼人の部屋を訪問しました。
何度かインターホンを押しても反応がなかったので、控えめにドアをノックしました。
留守かな、と思うくらいの沈黙の後、ほんの少しドアが開きました。神経質な表情の女性が探るような目つきでこちらを見ます。それが依頼人でした。黙ってチェーンを取り私を中に招き入れます。
電話で想像した通り、年齢の分かりにくい女性です。すでに日没近かったのですが、なぜか明かりをつけず室内は薄暗い感じでした。とても来客を招くようには思えません。
部屋の中は雑然としていて、散らかっているから電気をつけないのか、と考えました。
相談内容
相談の内容はシンプルでした。夜中に誰かが来てインターホンを鳴らす。眠れなくて困ってる。なんとかして欲しい。そんな内容です。
こういう依頼は過去にもありました。ストーカーか隣人トラブルのどちらかだろうと考えました。
現場を証拠として撮影し、相手の素性を突き止める事は出来ると私は答えました。後は警察に届けるなり、その相手と話をつけるなり、依頼人の自由だと。
それで良い、と依頼人は答えました。どのくらいの頻度で相手は来るのか、と私は尋ねましたが、よく分からないと言う返事でした。
結局、3日間の期間を設定し、成果が出た時点で終了という条件で契約を結びました。
暗い中、苦心して契約書を作りながら料金を伝えると、依頼人はリビングの隣の部屋へ入り、お金を持って戻ってきました。その場で契約は成立し、私はその日から早速張り込みを開始する事になりました。
荒れ果てた現場
改めて見てみると、マンションの中は見た目よりずっと荒れていました。あちこちにゴミやチラシが散乱していました。
とあるドアの前には無数のタバコの吸殻が固まって落ちていました。
錆びついた新聞受けや、枯れた植木鉢が転がっていました。子供の居る家庭が住むようなマンションには見えませんでしたが、なぜか古い子供用自転車が折り重ねられて廃棄されていました。
1フロアには全部で5部屋がありましたが、不思議と人の気配はまったくありません。
隣人トラブルだとしたら、「犯人」は同じフロアの住人の可能性が非常に高いと考えました。
ストーカー相手ならば廊下や玄関まわりに隠しカメラを設置する手法が有効ですが、隣人となると軽はずみにそういう手段は使えません。
見慣れないものが置いてある。物の配置が微妙に変わっている。…そういう細かい変化は意外に目につくからです。
死角での張り込み
結局、私はエレベーターや通路からは死角になっている階段に隠れ、直接撮影する事にしました。
通路に並んだ6つの蛍光灯は、そのうち2つが切れて1つが点滅しており、薄暗く、隠れるにはおあつらえ向きでした。
真っ暗な階段は、壁に囲まれて完全に死角になっていましたが、エレベーターから誰か降りたり通路を歩くのは、音や気配で把握出来ると思いました。
階段の闇の中で息を潜め、私は張り込みを開始しました。
以前にも似た相談を受けた私は、ストーカーが依頼人の玄関ドアにスプレーを吹きかけるシーンを撮影したことがありました。おそらくは、それに似たケースだろう。そう、ぼんやり考えていました。
それにしても妙なマンションだな、とふと思いました。
建物は古いですが、それなりに大きく入居者も多いはずなのに全然人の出入りを見かけません。それどころか気配すら感じません。
電灯のついている窓もある為、誰かが住んでいるのは間違いないはずなのに。
それに、福岡市の中心部にあるマンションなのに、この静けさはなんだろう、と思いました。
しかし、静かな方が不審者の動きを察知しやすくて好都合だと思い、深く考えるのをやめました。
古い建物だけに壁も重厚な造りをしているのだろう、と勝手に納得しました。
動き始めたエレベータ
一時間ほど経った頃でしょうか。エレベーターがガタガタと動き始めました。誰かが乗り込んだ気配が伝わってきます。私はカメラを持ち身構えました。
しかし、エレベーターは下の階で止まったようでした。降りる音、廊下をコツコツと歩く音が私の居る4階にまで響いてきました。
私はふっと息を吐き体の力を抜きました。
しかしそれっきり、しばらく動きはありません。
この時はスタッフもおらず一人で調査していた為に交代が出来ず、緊張し過ぎて肝心な時に気が抜けてしまわないよう注意しながら張り込みを続けました。
さらに時間が進みましたがそれ以降動きはありません。エレベーターも階段も静まり返っていました。
今夜は空振りか? …そう私が思い始めた時。
ゴクン、と音がしてふいにエレベーターが動き始めました。どうやら一階へと降りていくようでした。
全身に緊張が走りました。
犯人か?
「人々が寝静まった時間に来る誰か」は、犯人に違いない。本能的にそう察しました。
一階に降りたらしいエレベーターはやけに長い時間その場に留まっていました。私は汗ばむ手でカメラを握りしめながらも、慎重に待ちました。
しかし一向にエレベーターは動きません。
自動運転で一階に戻っただけかな、と私が思い始めた時、唐突にエレベーターが動き出しました。
エレベーターはぐんぐんと上に登ってきました。そして、予想していた通り4階に止まりました。
さすがに私の鼓動も早くなります。早く飛び出しすぎても相手に見られて犯行前に逃げられるおそれがあります。だからといって、間を置き過ぎると肝心の決定的瞬間を撮り損ねます。
エレベーターのドアが開いた音にじっと耳を澄ませて、私は慎重にタイミングを図りました。
相手が乗ったままだと階段から顔を出した途端、鉢合わせになる危険性がありました。確実に降りて、依頼人のドアに向かって歩き、こちらに背を向けた時がチャンス、と思いました。
しかしいくら待ってもエレベーターから降りて歩く足音は聞こえません。エレベーターが動く気配もありません。どう考えても、まだエレベーターの中に居るとしか思えません。
私の鼓動がさらに早くなりました。どうして動かない?
決心
頭を疑念と不安がグルグルまわりました。何分くらい経ったか分かりません。ひょっとしたらそれほどの時間は経過していなかったかもしれません。時間の感覚はすっかり失われていました。
私は意を決してエレベーターを覗くことにしました。
堂々と見たほうがかえって怪しまれない気はしましたが、どうしても物陰から伺うような姿勢でそっと覗きました。
エレベーターは無人でした。
最初に浮かんだのは、すでにエレベーターから降りられて依頼人の部屋に行かれ、イタズラをされてしまったという調査失敗の恐怖でした。
急いで依頼人の部屋の前に行きましたが、一見して変わりはありません。
そもそも、ひとつしかない階段に私が居るのだから、そのフロアに誰も居ないのは不自然でした。
振り返ってみても、暗い通路に浮かび上がるように青白く光るエレベーターの中には誰も乗っていません。
いつまでも通路でウロウロしてるわけにもいかず、とりあえず階段に戻って身を隠し、一体どういう事だろうと考えていると再びエレベーターが動き出し一階へと戻りました。
あとはそれっきりです。
朝になって
朝になり、調査を打ちきった私は一度自宅に戻って仮眠をとり、依頼人に経過報告する為に再びマンションを訪れました。
エレベーターに乗って4階の依頼人の部屋に向かいます。狭いエレベーターに変わった点はありません。色あせたグレーのじゅうたん。傷だらけの金属のパネル。割れたボタン。そして異様に遅く明滅する頭上の階数表示。
依頼人の家を訪れインターホンを鳴らしましたが故障しているらしくまったく音がしません。
昨日、訪れた時はすでに夕方で薄暗く気づきませんでしたが、どうやらコードが途中で引きちぎられてるようでした。
仕方なくドアをノックしました。音が廊下中に響きドキッとしました。こんなに音が響くのであれば、不審者が来ていればすぐに分かるはず、とあらためて思いました。
やはり昨日は誰も来ていなかったはず。
約束の時間ちょうどだと言うのになかなか依頼人は出てきません。私もいつまでも廊下に立っているわけにはいかず、何度もドアを叩きました。
依頼人との最後
何度目かのノックで、ようやくドアが開きました。チェーンがかけられたドアの隙間から依頼人の虚ろな目が見えました。
一瞬ひるみましたが、自分の仕事に落ち度は無かったはず、と思い直し、探偵ですと告げました。
依頼人はなぜだか平坦な感情のない顔でこちらを見ています。
しばらくそうして無言のまま見つめ合っていましたが、依頼人がそっとドアの隙間から封筒を指し出して来ました。
受け取って中をあらためるとお札が数枚入っていました。すぐには理解できませんでしたが、しばらく考えてそれが3日分の調査料金の残金であると思い当たりました。
戸惑う私に、依頼人は、もう来なくて良いですと低い声で言いました。
さすがに面食らった私は、どういうことかと聞きました。昨夜の報告もまだしていません。
それとも昨日の深夜のエレベーターはやはり不審者で、依頼人の部屋に何かしたのか、と考えました。
隣人が犯人ならば、依頼人の部屋に害を与えた後で自分の部屋に逃げ込めば、確かにそのフロアからこつ然と消えてもおかしくはありません。
しかし、それでも神経をとがらせて様子をうかがっていた私に気づかれずに出来るものなのか、と考えました。
昨日の夜何かありましたか、と思いきって尋ねました。ずっと張り込んでいましたが何も無かったはず、と付け加えます。
それを聞いた依頼人は、深い穴でも見るような目で私を見ていましたが、やがて静かに、何も、と答えました。
私があっけにとられているとガチャンと乱暴にドアが閉められました。ドアが閉まる瞬間、依頼人がぞっとするような笑いを浮かべたような気がしました。
死者の乗ったエレベータ
私はしばらく佇んでいましたが、他にやりようもなく事務所に戻る事にしました。
4階に留まっていたエレベーターに乗り込み、ガタガタと耳障りな音をたてて1階へ下りながら、やはりこれだけ音がしたら誰か来たのはすぐに分かる、と改めて思いました。勘違いのはずはない。
依頼人の中にはふと気が変わって唐突に依頼をキャンセルする人もたまに居ます。おそらくは、そういうタイプだったのだろう、と自分を納得させました。残金も受け取ったし、これで理不尽なキャンセルであっても納得しよう。
地上にエレベーターが到着し、出口に向かって歩きながら陰気な色をした古いエレベーターをなんとなくチラッと振り返り、妙な依頼だったな、と思いました。
重いガラス戸を開きながら、そういえば、とふと思いました。
「深夜にインターホンを鳴らす誰かを捕まえて欲しい」という依頼だったはずですが、依頼人の部屋のインターホンは壊れて音が鳴らなかった事にそこでようやく思い至りました。
これが「死者の乗るエレベーター」の話です。
本当はもっと別のタイトルをつけるつもりだったんですが、なぜかいま急にそんな単語が頭に浮かびました。
理由は私にもよくわかりません。